いつまでも幼稚園児

書く練習、書くリハビリ

K先生の訃報

昨日は楽しく裁判傍聴し仕事もまあまあがんばったし明日はピカチュウ見に横浜でも行くか、とるんるん気分で帰宅したら、テーブルの上に一枚のハガキが。ワープロで◯◯◯様(私の名前)という宛名。こういうタイプのDMってなかなか自分には来ないはずだけどなんだろう。
裏面見る。◻︎◻︎◻︎(見たことのある名前)が永眠しました、という奥さんからの知らせ。頭に入ってこない。信じられない、という思いでいっぱい。最近じゃなくて、半年ほど前らしい。
「え、先生死んじゃったんだあ」なぜか明るい声で部屋にいた父に言う。「もっと手紙出しとけばよかったな」違う、言いたいのはそういうことじゃない…。でもまだ実感がわかなかった。お風呂の脱衣所を閉めてドアに寄りかかり体育座りでスマホをいじっていると、悲しみがこみ上げてきた。
しかしまだ実感がない。それよりも62で亡くなった、という、62という数字が重くのしかかる。うちの父母(65と64)もいつ急にいなくなってしまってもおかしくない。突然別れが来てもいいように、いつもやさしく接しなければいけないし…何でもない時にでも感謝の言葉を伝えないといけないんだな…。

先生は、高校の世界史教師で、私に世界史の面白さを教えてくれた人のひとり。授業は板書をカリカリやって読むというスタイルでそれはそんなに面白くなかったんだけど視聴覚室で世界史にまつわるビデオを見せてくれたり先生独特の雑談がとても面白かった。授業を少しでも妨害する生徒にはすぐキレる…という感じだったけど、とても人間味のある先生だった。ほかの先生だって人間味がないわけじゃないだろうけど中途半端な進学校のくせして受験だけに特化した授業で(問題を機械的に解くだけで生きかたとかを教えてくれる授業がなかった)めちゃくちゃつまらないし私も個人的な交流とかしないから人間味に触れることは少なかったから。
人になつかないことには定評のある私が萱野先生のことは慕い(趣味とか人柄とかをだね)、授業が終わったあと社会科準備室に行ってちょっとおしゃべりしたり漫画やDVDなどの貸し借りをしていた。あまりにもつまらない先生が多すぎて、その中ではめずらしく外の世界を教えてくれそうな、先生の趣味とかが気にいって、教えてもらおうとしたのだと思う。担任の先生でもないのに先生はよくしてくれて(先生は担任としても慕われていたのだから、人望を得るには私などとの交流なんかなくてもいいくらい、いろいろな人に慕われていただろうし、こちらが勝手に慕っていただけなのだが)、卒業後も手紙のやりとりをさせていただいていた。
先生は、お父さんが近衛兵で天皇のことを天ちゃんと呼んでいた。それから、萩尾望都大島弓子山岸涼子などの少女漫画が好きなおちゃめなおじさんで、萩尾漫画を私に教えてくれた。先生から借りた漫画で印象的だったのはトンスラという修道士の髪型だ。それから、映像の世紀を授業で見せてくれたし、私がファンだと言ったら、社会人になる時にお祝いでDVDセットをくださって、感動した。手紙のやりとりをさせていただいていて、先生オススメの写真集も2冊くらいもらった。中国の歴代王朝の歌はサザエさんのリズムで覚えた。先生のこと、たくさん思い出す。先生の訃報がすぐでなく半年後だったのは、奥さんにとって先生の死が突然で大変だったかもしれないし今担任してるクラスの生徒でもないししょうがないかもしれないけれど、お葬式行きたかったな。暑中見舞いの時期にだいたいハガキを出していたから、奥さん遺品のハガキを整理していて私に気づいたのかもしれない。今日は国分寺高校のそばに行ってみようかな。先生のことをたくさん思い出してみる。先生と自分だけのお葬式をやろうかな。

教師全般嫌いだけど数少ない大好きだった先生。ぽろぽろと涙が出て、本当に先生のこと人として好きだったんだなあと思う…。さようなら先生。今までありがとう。