いつまでも幼稚園児

書く練習、書くリハビリ

ちゃんと朝起きるだけで健全な生活してる気がする

最寄駅の改札の前でこれから仕事に行くために電車に乗ろうとしている母親に向かって、おそらくこれから幼稚園に向かうんだろう、緑色の制服を着て白い帽子をかぶってうさぎみたいなまあるい瞳とおさげをした五歳くらいの女の子が名残惜しそうにバイバイしていた。なんだか、すこし、心洗われる情景であった。

敗戦記念日

新しい朝が来た。今日は敗戦記念日です。

あらためて負けを認めるとともに、今後はより楽な生き方をしていきたいと思ってる。

前のぐちゃぐちゃしたブログを改めようと思います。

が、全部消すのはもがいた自分を消すようでそれはあまりにもしのびないので(もがいてた自分もそれなりに愛してる、今は)、残そうと思います。

 

心機一転、というほど、明るい性格ではないけれど、すこし違う心意気ではじめてみようというわけです。

 

2年前、ショックな出来事があって、それまで、前向きでしかなかった仕事の根本そのものに疑問を持ち(簡単にいうと、信頼していた人に裏切られ、人を信頼できなくなるとともに、自分も信頼できなくなった)、凄まじい鬱になって(その時、医者にいけばよかったが、ハードルが高かった)、以来不眠症になって、だんだん心身が悪くなり、席替えもあったし、まわりのひとにはそれなりに恵まれていたのに、自分の精神状態は最悪で、この職業無理だ、自分がいる意味ない、っていう極端な考えまで落ち込み、職を変えようと思ったりこの世から消えようと思ったこともあったけど、医者に行って薬を飲んだり考え方の偏りをやわらげることによって、過去とは、少し、距離をおけるようになりました。

最良の選択かどうかは、わからないけど、ひとまず、今の場所にとどまることにした。

職を変えることが答えじゃないような気がしたのだ。

 

今までも自分勝手だったけど、これからも自分を大切にしたい。あと、家族を大切にする。それから、いいパートナーを見つける。人生を大事にしたい。ひとはひと、じぶんはじぶん。ひとと比べない。背伸びしてもいいけど、無理しない。

 

去年、わかったこと。

小説を書くことは自分の救いになる。

だから、これからも書いていく。

編集者を目指そうとした。でも、発達障害気味の自分は、いろんなことを同時にできない。おそらく、編集の仕事を今はじめると、3年はそれに全力を注ぐことになる。つまり、小説の勉強ができなくなる。今、いちばん大事なのは、創作の時間を確保することだとわかった。年をとるごとに気力がなくなっていく。いつ死ぬかもわからない。今、大事なことをやろう。長期的な視点から、今の職場はキツイような気がしたが、職を変えたら、もっとキツイ気がした。そして、たとえば、休職すると即クビだったり会社そのものがつぶれるような気がしたり激務に耐えられないような気がした。そして、何よりも、自分は、他人が書いたものをぜんぶ素敵だと受容できるような心を持っていなかったし、ここ数年で、書き手に会って思ったことは、思ったより嫌な人が多そうだ、ということである。結局どこにいっても変わらないのではないか。そして、私は、自分が主役になりたいのである。あと、英語にも不安があるし、何よりも読書量や知識についていけず、劣等感がより大きく出てしまう気がした。あとは、学術書や人文書が中心、という点。自分には正直難しく、手に負えるものではない、と感じた。それ自体、たまに興味深く読むことはあるけれど、大好きじゃないし、評論はほとんど読んだことがないし、少し読んでみて、正直好きになれない、と思った。また、日々、それに触れることにより、自分の持つ「地べたを這うような庶民的な感覚的な面白さ」が失われるような気がした。試験を受けた会社のかたにはよくしていただいたし、本当に申し訳ないけれど、恐れが大きかった。気が狂うかと思った。思い切って、飛ぶのもありだったかもしれないけど(やってみないとわからない)怖かった。その自分の怖さや臆病さも肯定しないといけないと思う。

 

ということで、一段落したので、しばらく、目の前の仕事はきちんとやろうと思う。しかし、社内で時間内に済ませ、持ち帰らないようにする。だらだらやることをやめる。そして、部屋の片づけと読書を進め、一人暮らしに向けても出発する。人よりも何倍も遅れているけど、もともとだ。開き直ろう。あと、お金を貯める。もう一度、大学で学ぶことに興味がある。思いきり外の環境に、一定期間、身をおいてもいいかも、と思い始めている。(海外とか)。会社名で人を好奇の目で見てくる人間は相手にしないこととする。

 

正直、鈴木さんや杉山くん、佐々木さんに影響されすぎたと思う。彼らと私は違うタイプなのだから、彼らに負けじとやろうと思っても、一生追いつけない。違う良さで勝負するしかない。彼らはすごい。しかし、彼らにはできないユーモアをやろう。ものすごく知恵や情報を持っている人と、創作をする人とは、根本的に違う。頭の使う部分が違うように思う。世の中には両方持ち合わせている人もいるのかもしれない。でも、自分はひとつしかできない。

 

数年間、研究してきて思ったが、優れたクリエイターは広く深いというタイプのオタクではないように思った。オタクではあるが、狭く深く、なのだと思う。(たとえば、自分の好きな作品を100回以上見ているとか。これは、たくさんの種類をまんべんなく見ておくことと質が違う。)または、案外、ものを知らなくても、爆発力さえあればクリエイターになれてる人なんてたくさんいるな、と思った。なので、私も、読書をする際は、冊数ではなく、質を重視してやっていきたい。一日一冊なんて、とても無理なのだから、自分の読める時に集中し、ひとつひとつに深く潜りたい。数ばかり言うのは自分のセンスに関して劣等感のある人だ。

 

あとは、やはり、少しは、社会に貢献したいという心がある。無力な自分には、そんなにたいそうなことはできないけど、自分と似たような境遇にあった子どもを救いたいと思った。(人を救うことで自分も救われるとも感じる。)そして、前はいじめっ子をただただ恨んでいたけれど、今は、いじめられっ子は(一部のサイコパスを除いて)家庭環境がものすごく悪いことが多いことを知っている。だから、ただただ切り捨てることなんてできないのだ。いじめられっ子といじめっ子、両方を救うような社会システムが必要だと切に思う。しかし、自分は無力だと痛感しているので(たとえば会社や肩書を利用して大きなことをやったりたくさんの人を巻き込んで何かをやるのは性格的に無理だと思う。もっと個人的な小さなことしかできない)、この社会に対して、どういうアプローチができるかどうかと考える。たくさんのことを同時にはできない。力を注げない。身内にいるから内情を知っているし、個人的にも「先生」や「教育者」に対していいイメージが全くないから、教員は向いてないと思う。でも、教育には何らかのかたちで、携わりたい。そこで、思いついたのは、拙いながらも、約9年ほど取り組んできた創作という分野から、教育に貢献することである。即効性のあるものではないけれど、読書は人を普遍的に救う。しかも、押しつけがましくなく。(ここが重要だし、好きな部分だ。)なので、児童文学を書きたい。厳密に児童文学と規定しなくてもいいかもしれない。かつて、居場所を見つけられずにいた子どもの部分を残したままの大人に向けたお話であってもいいのかもしれない。とにかく「子ども」を救うおはなしを書きたい作りたいと強く思う。自分もまだまだ「子ども」だと感じるし、書くことで自分を救いたいだけなのかもしれないが。ものすごく個人的な話を書くことは、世界中の孤独な人につながる、ということを、半年くらい前、ある作家のトークで聞いて、勇気をもらった。無力な自分にも何かができるかもしれない、と。

 

小説教室に行くことはやめた。一時期はとても楽しかったし、小説を書きあげたことのない自分が最低限書きあげることができるという自信をもらえたし、年の離れた友人や信頼できる読み手を得ることができた。教室にも先生にもとても感謝している。

だけど、先生の主張や先生の書く作品の持つリズムが正直あまり好きじゃないのと自分のユーモアや自分がいいと思っている部分が全く認めてもらえないこと(技術が乏しいのだからある程度正しいのかもしれないが、先生はおそらく私のスタンスやセンスが好きじゃなかったと思う、人間だから好き嫌いあるのは当たり前、しょうがない)、人を腐すことでしか自分を保てない人が教室内にも数少ないながらもいることが、自分の精神に悪い影響を及ぼすように思われた。私は、ものすごく他人から影響を受けやすいのだ。それはいいことでもあり、悪いことでもある。自分にとって悪影響なものだとすぐにわかっても、他人の考えを自分から追い出すのにものすごく時間がかかる。そして、根拠のない自信はとても大切なものなのに、小説に通うことによって、それが失われていくように思われた。自分の足りなさを確認できたことはものすごくよかった。あとは、孤独な作業だと思う。努力する凡才は、努力しない天才にたまには勝てると信じて。(あとは、教室内で好きだった人に好かれていなかったという点も大きいかも。もう好きじゃないけど。私も人間で、ロボットじゃないからね、そんなに簡単に、切り替えられないのだ。)

雑感。今朝の通勤電車(女性専用車両)はけっこうすいていた。みんな休みなのかなあ。20代後半くらいの女の人二人(両方とも並んで座っていた)の一人が四谷あたりで降りるとき、一方にバイバイと小さい声で言った。同僚かなあ。友達ふたりで通勤って悪くないな、と思いました。

会社に行く道の途中でエグザイルの映画の巨大看板に遭遇する。エグザイルっていわゆるDQNをターゲットにしてるのかなあ。DQNっていう言い方よくないけど。地元愛強いマイルドヤンキー。暴走族するほど行動力とか人を巻き込み力はないけど不良には興味あるし安全な場所からそういう世界を見たいという人向けなのかな。しかし意外に出演者が豪華だ。演技力があるとされている人も多数出ている。相当な金を使っているのだろう。

 

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午前中に書きました。100%生まれ変わることはできないけど、新しい気持ちで。

新しい人生

今日から新しい人生だ。
早速、男にフラれた。
いや、正確にいうと、
好意を伝える前に
男からのメールを見て
私が相手を想う気持ちが
ふっとすべて消えたのだ。
ははははは。
まあ、相手が
(自分が好きでもない私に)
告られる危険を察知して、
そのメールを送ってきた、
ということだったら、
フラれた、に近いわけだけど。

それとは関係ないが。
過去にたらればはないが、
まあ、私は、今日から
別の人生を歩むことも
できたわけだけど、
その道は選ばなかった。
自分で決めたことだ。
文章を書く、を一番大事にしよう。

とにかく、Re:スタートだ。

日々のことを書く。

ちょっといろいろあって、しばらく会社は休むことになった。転職は今の状況ではひとまずやめた。今は、休養している。最初のハードルは高いけど、ちゃんと医者に行ってよかったと思ってる。風邪って心もひくんだな。

5月8日。日。
小説講座の友人2人と勉強会&食事。吉祥寺にて。ゼノン→いせや→ファンキー。楽しかったー!3軒はしご。ふたりには、チェーホフの「ねむい」をプリントして持っていった。あとは、佐藤雅彦編の「教科書に載った小説」(ポプラ文庫)をオススメ。あと、留学する友人にいろいろプレゼント。「独学の精神」と「僕の名はアラム」含む、若干実用的な雑貨。喜んでもらえたならいいな。いろいろ話も聞いてもらった。カウンセリング5000円払うよりずっといいわ。(ふたりには迷惑だろうけど。すみません。この場を借りて謝ります。)

5月9日。月。
昨日の疲れで昼過ぎまで寝てる。基本的にだらだら。山田太一のエッセイコレクション「昭和を生きて来た」(河出文庫)を読み終わる。辛辣だが優しい。氏のドラマがなぜそうなるのか少しわかるような気がした。ゆとりですがなぜか、4話録画見る。学芸会のモンペは面白いね。笑えないけど、笑える。会社の同期から私を心配する手紙が来る。けっこう感動する。
あさが来た、最終週よりひとつ前の週の2話分見る。夫婦っていいな。もちろんしたことないからいい部分しか見えてないけど、やっぱり1回は結婚したい。

しょーせつ

人生の大きな転機になることがあってしばらく書けてなかった。それはまだ進行中だからのちのち説明する。

昨日久しぶりに小説講座に行った。自分はあぐらをかいていた!コピーライターだから人よりも考える訓練や書く訓練をしていると思いあぐらをかいていた!そんなことはなかった。自分より年下の男の子ののびしろや感性がすごくてうちのめされる。前は自分とは違う能力だと思ったから落ち着いて見ていたけれど、その言葉のみずみずしさとやわらかさに圧倒された。認めざるを得ない。比喩に非凡なものを感じる、とひとり評されていた。当たり前だけど、シンプルに毎日読み毎日書いているのだろう。急速に成長していた。その子のことをほのかに好きだったけどその好きな気持ちよりライバル心や悔しさのほうが大きくなってしまうあたり、自分は恋愛の資格を持っていないのであろう。いや、でも、人として好き。しかも、頑張ってる。しかも、いいやつ。くそう、嫌なやつだったらよかったのに。
言い訳すると小説は二の次で転職活動を一にしていたからしょうがないのだが。自分には思春期の読書の蓄積がないのだから、人一倍読み書きに費やさなければ人並みにはなれない。なので4ヶ月ほどほとんどできてない状態からこうなるのは当然なのだが。嫌悪するべき対象なのに母親に仕込まれた体育会系思考が顔を出す。毎日の300本シュート練習が足りないから下手になるのは当たり前なのだ。
その子と同じで若い子枠にまだ入っていてちやほやされているからいい気になっていた。2期までとっていた女に生ぬるい環境で慰めあってんじゃねーよと決別をつきつけられて(というほど仲良くはなっていなかった気がするが)も、自分はそんなに甘い気持ちじゃない、と思っていたけれど、確実に甘い気持ちだったと思う。
自分の世界観や書きたい方向はあるものの、下手くそすぎて、吐きそう。うすっぺらい。
あらためて自分は平凡だと強く自覚しなければならない。自分はどんなジャンルにおいても教科書的にしかできない優等生タイプでセンスがないことをつきつけられた。だが、そのやりかたしかできないからこその戦い方を考えなければならないし、行動しなければならない。ストイックさが足りなかった。
ただ、焦ってはいけない。本腰を入れるまでには準備が要る。そして自分は人よりものろい。他の人と比べてはいけない。謙虚な気持ちで一歩一歩を進めなければ。

コピーライターとしてやっていて、何の気持ちも入れずに文字数を増やすことはできるのだが、わかりやすく説明的で(文学的には素晴らしいからはかけ離れている)ひらべったい文章しか書けないのだ。いいと思っていた能力だが、弊害になるのか。この職業に就いてることは何らアドバンテージにはならないというつめたい気持ちになった。
エンタメ小説ならありかなあ。
しかし、エンタメは人のために書くもので純文学は自分のために書くもので自分は自分のために書きたいので後者寄りのものも書いてみたくなっているのだ今。
映画や世の中をみんなより知っているほうだとか変な勘違いをしていた。違う、感情を知ろう。
あと、コントロールされた破綻のないものばかりを書いてしまう傾向がある。次回は詩のようなものを書いてみたい気持ちに駆られた。あとは比喩を頑張ってみよう。エネルギーに負けた。読書の蓄積がない27歳はもうダメなのか?いや、ここからだ。時間がかかる人間なのだから、あきらめてはいけない。

同じことばかり書いてるなあ。しつこいんだよね、文章が。写経やらないと。
知識も感性も中途半端なんだよなあ。コピーライター界では無能と見なされたけどここでもそうなのか。いや、がんばるのだ。発想は悪くない。何を書くか、だ。


⚪︎今回書いたものの反省点
・単調
・会話入れる?

あとは、日本語の美しい小説や現代の日本の小説をもっと読んでみようと思った。もっと書けるようになりたい。欲が出てきた。言い訳しないで、やろう。ツイッターでつぶやくのも減らす。しばらくは小説のために生きる。