いつまでも幼稚園児

書く練習、書くリハビリ

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1月18日。

世界の珈琲豆にはじめて入る。意外に普通のお店。

月和茶。両親と。いろいろ頼んで思いっきりたべるというミッションは果たせてよかった。

 

1月19日。

思い出し怒りというのを久しぶりにやってしまった。

母に対して。もう、どうしようもないことなのに。

案の定、そのあと自己嫌悪。

 

私は、完璧主義者のようで、自分の選択には必ず正解と不正解があると思い込んでいて、不正解を選んでしまった、という考えが頭をぐるぐるしはじめると、止まらなくなるのだ。

望まれて生まれいい家族に恵まれ幸せに育てられたという大枠とはべつで、得意でも好きでもないバスケットボールのせいで、幼少期(といってもかなり大きな時間)、好きなものに没頭するという時間を奪われてしまったことに対し、今でも大きなわだかまり(怒り)をもっているのだ。好きじゃないから、やめたい、と強く言わなかった自分に対してもだ。つらい。過去にとらわれている。考えるのをやめたいが、この不毛な考えは止まらない。たられば星人。

 

1月20日(月)

隣の席のTが、選ばれたのがうれしくてしょうがないのであろうが、やたら「研修、研修」と口にする。うるさい。知りたくなかった。

M部長は、「君とTを比べた時に、Tのほうががんばっていると思った。」と平然と言った。本当にムカついた。レッテルを貼ってる。韻踏んでる。おかしくないが。いつかギャフンと言わすやつリストに、Mの名前も入れる。

Tはよくわかんない。気も合うし、いい友達だと思うこともあるが、こっちをただ、自己研鑽のための使い勝手のいいライバル(いらない時は切り捨てる)だと思ってるんじゃないか、と思う時もある。油断しちゃだめだ。

組織に失望したのは、自分よりTのほうが期待されていること。Tのほうに面白い仕事が来る。結局、男のほうが、口が立つ人間のほうが重宝される。賞をとっても、何も変わらなかった。でも、そもそも、会社経験の成果で入社しても、マーケティングに配属される人もいるのだから、ここにいるだけマシなのだろうか。

がんばっても無駄なんだ、という思いが強くなってきてしまっている。

でも、結局、いつも最後には、自分がダメな人間だということを思い知らされ、嫌悪につながっていくのだ。

口下手で、人をおこらせる天才、物事に優先順位をつけられず、何件も同時進行しているとひとつもいいアイデアが出せない。ひとつだけは得意だと思っていた部分がまったく生きないし、ほめられない。ごめん、最初から、高い志とかなかったわ。ただ、ほめられたくて、居場所が欲しいだけだった。そういうわけだと、今の場所は決していい場所じゃない。もう、給料泥棒でいくしかないのかな。つらいよ。つらい。

賞にこだわったわけじゃないんだ。居場所がほしかっただけ。ほめられたかっただけ。でも、今後、ないだろう、と見切った。もし、圧倒的に他者に承認される(たとえば、大きな愛情で包まれる)とかあれば、賞とか仕事とかどうでもいいのかもしれない。

 

このモテなそうな外見では無理だろうが、圧倒的な愛なら、公序良俗に反すること(妻子ある男とのうんぬん)だってやってしまうかもしれないのである。昨日ある書物の中で見かけたので使ってみた、コージョリョーゾク。難しいね、ってか口語では使わないな。まあありえないけどな。

 

この文を読むと、負けるもんか、という気概にあふれているように見えるが、そうでもない。落ち込みっぱなし。アスペルガーのページを見て、涙を流すと同時に、疑いを強めている。ラクになりたい。やはり、一度、ちゃんと診断をしてもらおう。

 

何をやっても、無駄で、今後向上はのぞめない。クビを待つばかりだと思う。

 

1週間の半分以上が憂鬱で無気力に包まれている。