いつまでも幼稚園児

書く練習、書くリハビリ

フィリップ・シーモア・ホフマン

 

著名なハリウッド俳優が死んだ。

フィリップ・シーモア・ホフマンにはスクリーンでしか会ったことがないから、その死は実感がなく、まるで映画の中で死んだかのようだ。

そもそもフィリップ・シーモア・ホフマンは存在していたのだろうか。

まわりの人間が、よってたかって、グルになって、架空の人物、フィリップ・シーモア・ホフマンが名俳優でこの世に存在しているかのように私に思わせていただけではないか。トゥルーマン・ショーの主人公以外の人たちのようにね。

なんて疑いだすとキリがなくなってくる。

初めて海外に足を踏み入れた時、ああ本当に日本の外側の外国というものは存在していたんだ、とじーんと感動を覚えたように、本物のフィリップ・シーモア・ホフマンと握手したなら、感動しただろう。

スターの肖像はおぼろげだ。それでも、会ったこともないのに、実際に会ったことも時間を共有していたこともある小学校の同級生の顔よりもよく覚えている。

フィリップ・シーモア・ホフマン。いつのまにか、同級生よりも近い。遠いけど。

軽い映画ミーハーオタクだから、実際に作品を見ていなくとも、アカデミー賞に何が受賞したか、どれが流行っているかなんかの情報は常に入れている。「カポーティ」は気になりつつも見ないままである。「ザ・マスター」は全然面白いと思わなかったが、甘ったるい笑顔を浮かべたデブ宗教家の演技、カメラの前で急に怒りだすホアキンとの出会いは、印象的であった。

フィリップ・シーモア・ホフマンよ、さようなら。

もともと遠い世界にいた人が、また、他の人と同じように逝っちまったのか、って感じで、作品も大してみてなくて、そこまでかなしくはない。

ただ、有名な人の死はフィクションのように感じるものなのか、と思った。

スターは死さえ消費される存在なのさ。←友人のtwitterから拾った言葉。

確かにね、追悼特集とか、そうですもんね。

フィリップ・シーモア・ホフマンって、言いやすくて嫌いじゃないんだけど、長いよね。

なんで、外国人はミドルネームよく省くのに、シーモア入れてたんでしょうね。

フィリップとシーモア両方嫌いじゃないけど、シーモアはナイン・ストーリーズっぽくて好きかも。

 

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すこし、今話題の現代小説をハードカバーで買ってみた。

「舞台」西加奈子

「しろいろのまちの、そのまちの体温の」村田沙耶香

「ここは退屈迎えに来て」山内マリコ

 

山内マリコさんは富山出身。なんとなく、最近カルチャー誌で目にする名前だなあ、と思ったのと、父の実家が富山なので、手に取ってみた。富山って豊かな地域だけど全国的にマイナーなイメージあるので、そこに由来の人がグッと出てくるとなんかうれしくなって、さわっちゃうんだよね。人生に物語を求めすぎてて血のつながりとか故郷とかルーツってものが好きなんだと思う。この間の全国サッカーも富山優勝してうれしかったしね。映像学科を出て、映画に造詣が深いのだとか。映画ブログを拝見させていただいたが、私も映像関係の学科卒だし、この文化系な感じにはシンパシー!小説は面白かった。私は東京育ちだけど、ファスト風土のことを「旅」の卒論ですこし勉強したり、生まれ育った多摩地域も微妙に郊外なので、わからないこともない。学生時代にかっこよくてヒエラルキーのトップにいた人たちが…という描写もものすごいあるある。ってか、それを今度書こうとしてたのに。やられた(笑)まあ、違う書き方で行こう。